2017年 4月20日(木)
近くの桜も散り果て、ツバメが飛び交う季節になりました。
帰宅途中、水田にも水が入っているのを見て、
田植えの準備が進行中なんだろうと思いました。
朝刊によると、高遠の桜は見頃を迎えた様ですね。
ピンクが濃く綺麗なんだよ。
そうか思えば、まだ雪が降った所もあったりしてねぇ・・・。
何かと忙しい今週です。
一番面倒な事が中々進みません。
もう1日頑張りますかねぇ~。
さて、こちらの本の存在を知ったのは、
”日本の金銀山遺跡”の中に参考文献として記載されていました。
本自体は安価でした。
焼けて表紙のタイトル名が見えませんでしたw
本は昭和39年2月25日発行とあり、
購入のものは昭和44年4月30日三版発行とありました。
著者は石川県生まれの方です。
”越後の龍”と呼ばれた上杉謙信。
”甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄。
私の中では攻めの信玄氏と守りの謙信氏というイメージです。
武田軍か信濃に侵攻した事により、
義を重んじる謙信などといわれますが、
信濃奪回の暁には武将達以外の領土は自分の領土に・・・
と考えていたのかも知れません。
戦いは五分五分とされていますが、
領土拡大を成功させた信玄氏の勝利だったのではないでしょうか。
歴史的な事は話すと長くなるので、この位にして金関連に話を移します。
『 春日山城内惣在金目録 』 によると、
1126枚 1両3分1朱中小朱中 利平之金、買金、所々より参金
1588枚 4両3分2朱糸目 土蔵在金
”利平之金”は貸付の利金で、”買金”は買い入れた金です。
”所々により参金”は運上及び贈答だそうです。
”土蔵在金”は別口になっていて貯蔵用です。
小葉田淳博士によれば文明以来盛んに輸出された日本金は42匁で、
田舎目10両を1箇(個)としたもので、
貿易金として一定の品位で10両を単位として作成されたものではないか?
ということで、ここでの1枚は10両の金であります。
貿易金の事は書籍で述べられている事であろうか?
参考文献にある書籍かな?
これらの黄金の中心は越後黄金山と推測されています。
越後黄金山の事は第1回の金山遺跡砂金フォーラムで聞きました。
元亀時代の頃の戦国大名割拠略図がありました。
この頃には越中の金山も手中にあったのでしょうね。
新たな産地につながるものはありませんでしたw
両雄が抱えていた金山はお互い欲しかったに違いないと思いました。
金の産出量ではどっちが優勢だったのでしょうね。