砂金に魅せられて!金狼の日々

砂金掘りを中心に、日常の記録です。

山ケ野金山と山内与左衛門

2015年 2月19日(木)

日曜日は近県も雨の様です
寒い時期の雨の日はさすがにねぇ~。
関東方面は曇りの様ですね

さて、島津の金山のお話です
島津家といえば○に十の字の家紋が有名です
(くつわ)十字というらしいですw

イメージ 1

元々は十字だけだったそうですが、
礼装用の紋に転化して外郭を○で囲んだ家紋になりました

その島津氏の薩摩藩を支えた金山が山ケ野金山です
一時期は佐渡金山をしのぐ産出量だったと様です。

きっかけは川で金鉱石が発見された事です
当時の藩主の島津光久(しまづ・みつひさ)氏が、
金鉱脈の探索を家老の島津久通(しまづ・ひさみち)氏に指示しました

島津久通氏は石見銀山に務めた経歴のある
山内与左衛門を呼び寄せて探索に当たらせました

記録には島津久通氏が野宿をした際に
見たお告げの夢の岩を見つけて金鉱脈を発見したとなっています
しかし、当時の状況から、
実際は山内与左衛門が金鉱脈を発見した様ですwww
1640年5月12日(寛永17年3月22日)の事です。

検索したら山内与左衛門の墓碑があるのですね
山内与左衛門の戒名に金山の文字が見えます。

※ 山ケ野金山初代山先役・山内与左衛門とその墓碑 ↓

1641年、幕府に金鉱脈発見を報告し、
翌1642年、幕府は採掘を許可し経営を薩摩藩に任せました
幕府に報告した位置と実際の位置が違っていました。
その為、公式には長野金山となっていたそうです

薩摩藩の策略なのでしょうか?
それとも、単に間違えただけなのか・・・。

幕府は採掘開始から1年を待たずに採掘中止命令を出しました
しかし、密かに採掘は続いていた様です。

〈 参照:山ケ野金山-Wikipedia 〉
〈 参照:広報さつま2 永野金山ものがたり 〉
〈 薩摩島津氏 -家紋- 〉

採掘が正式に再開されると、金山周辺は活気づいたといいます
この金山は薩摩藩の財政を潤していったのでしょうね。