砂金に魅せられて!金狼の日々

砂金掘りを中心に、日常の記録です。

湖底に沈む光秀の軍費

2014年 6月22日(日)
 
起きたら午前11時でした
「 普段と同じ時間に寝たのになあ~。 」 
 
雨は上がっていましたね
山の方は雲に覆われているので雨かな?
夜には会合があったので、大人しくテレビで野球観戦していました。
 
さて、今日は武将にまつわるお宝のお話です
 
 
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1582年天正10年)6月2日の夜明け近く
1万3千の兵を率いる明智光秀
京都四条仙洞院通りの本能寺を包囲した
 
手勢わずかに31名では、
さすがの織田信長も抵抗のしようがなく
3時間後、寺に火をかけると自害して果てた。
 
このとき、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、
いち速く3日夜には、このニュースを知り
城主清水宗治を自害させるとすぐに引き返し、
6日には姫路城に入城し、弔い合戦の仕度を整えた
 
そして13日、京都を制圧していた明智軍を山崎で打ち破った
光秀の天下はわずか11日で終わったのである。
 
戦いに敗れ、近江坂本城へ逃走する途中、
光秀は小栗栖の小道で、土民の竹槍に突かれ、54歳の生涯を閉じた
 
光秀の家臣能見晴長は坂本城を預かっていたが、
敗戦の報を受けると城内にあった財宝の隠匿を計った
 
今となっては明智家の断絶は必至あるし、
主家再興もなる筈がない。
 
ただただ財宝が敵方の手に渡るのを惜しんでの行動であった
 
晴長はあるだけの金子と宝物を小舟に積み、
人気のないのを確かめると琵琶湖の沖へ向かってこぎ出した
 
そして湖の半ばほどまで来たとき、それらを湖底深く沈めたのである。
 
埋蔵金というより、それは捨てた財宝である
恐らく光秀が生前に集めた名刀、
茶器の類もあったかと思われるが、
その量などは全くの不明で
探索を試みる人も皆無のようだ
 
一説によると、財宝あるいは軍資金の一部は、
湖岸の松の大木の根元に埋められたというが
これも定かではない。
 
また、光秀の支城があった京都亀岡の亀山城址にも、
軍資金埋蔵の伝説がある
 
しかし、本能寺を攻めた
明智軍のほとんどが亀山の兵であったことを考えれば
多額の軍資金を城に残したはずもなく、
あったとしてもたいした額ではないと思われる
 
                      (日本の黄金伝説 より)
 
この夏、君もダイバーになるかい?