2014年 3月13日(木)
今日は予報通りの雨でしたね。
風が時折強く吹いて春の嵐の様でしたね。
飛行機にも影響があった様ですね。
さて、今日は昨日に引き続き江戸時代のお話です。
金山じゃなくて小判です。
時は1657年(明暦3年)江戸の町が明暦の大火(めいれきのたいか)に見舞われました。
火災は江戸の町の6割を消失して、
大勢の人が亡くなりました。
※ 明暦の大火-Wikipedia ↓
徳川幕府は江戸の町を再建する為に財政負担を強いられます。
また、金輸出解禁に伴いオランダ貿易を通じて金銀が流出します。
更に主な金山の産出量も減少します。
1680年将軍職についた徳川綱吉氏は浪費家で収入以上に散財しました。
家康氏が残したといわれる200万両がなくなり、
江戸城の御金蔵がついに底を突きました。
困った綱吉氏は勘定吟味役に対策を立案させます。
1695年荻原重秀(おぎわら・しげひで)氏が小判の改鋳を実行しました。
1695年荻原重秀(おぎわら・しげひで)氏が小判の改鋳を実行しました。
それ以前にも小判の金含有量を減らす
改鋳の建議がありましたが老中に却下されています。
荻原氏の考えは現代の管理通貨制度に近い考え方でした。
アベノミクスならぬ、オギワラミクスだったのでしょうか?
※ 荻原重秀-Wikipedia ↓
2枚の慶長小判から3枚の元禄小判を造る事が出来ました。
上手く交換が進めば、
上手く交換が進めば、
金貨流通量の50%の利益が徳川幕府に転がり込む計算なのです。
改鋳により元禄小判の重量は17.84グラムです。
慶長小判は17.76グラムですから、ほぼ一緒で変化はありません。
しかし、元禄小判の品位の方は、
慶長小判の平均値は84.29%から57.37%へと3割以上減少しました。
そこで、交換のプレミアムとして当初は1%が付けられました。
慶長小判100両に対して、元禄小判が101両になった訳です。
しかし、商人達は騙されませんでした。
交換が進まないのでプレミアムを20%に引き上げられました。
慶長小判100両に対して、元禄小判が120両に交換する事になったのです。
これで、元禄小判の流通量は一気に増加しました。
元禄小判は密度は小さくなりましたので厚みを増す事で対処されました。
銀比率が増えると、金銀合金の色調は白っぽくなりますが、
小判を薬品に浸して焼き上げ炭粉や塩で磨かれました。
『 色揚げ 』 という方法で小判表面の銀成分を飛ばし
金含有量を増やして、小判の色目(黄金色)を保ちました。
※ 元禄小判-Wikipedia ↓
お金の量は増えた事でインフレが生じました。
旗本・御家人の生活は苦しくなりましたが、
幕府は30%も儲かったとされています。
綱吉氏はこのお陰で30年間も散財を続けられたのです。
綱吉氏はこのお陰で30年間も散財を続けられたのです。
※ 日本銀行金融研究所 貨幣博物館TP ↓
慶長小判は現在の古銭業界で意外と流通しています。
『 悪貨は良貨を駆逐する 』 というグレシャムの法則が当てはまります。
良質の慶長金銀は退蔵されて、
品位の劣る元禄金銀のみが流通したのでしょうね。