砂金に魅せられて!金狼の日々

砂金掘りを中心に、日常の記録です。

慶長小判と後藤庄三郎光次

2014年 2月17日(月)
 
お昼過ぎに起きたら、上司殿から連絡が入りました
スマホの画面を見て嫌な予感しました。
 
「 お前はもう会社に来なくていい! 」
お前はクビ!通達じゃありませんでした
 
「 大雪の影響で・・・・。 」
「 出勤しても雑用しかないけど・・・。どうする? 」
「 そいじゃー、休ませて頂きます。 」
 
どうせなら、もっと早く判断して連絡してくれたら、
掘りに行けたのにねぇ~
 
午後からだとね。
「 使えねぇ~! 」
神様がくれた自由時間を有効に使おう!
 
私の近況はさて置き、今日は小判のお話です
『 慶長小判 』 を下記のサイトで見つけました。
 
※ 野崎コイン ↓
 
既に売り切れていたのですが、
ゴザ目の美しさに惚れ惚れしました
そして、誰が造ったのが知りたくなりました。
 
イメージ 1
 
(野崎コイン・古金銀・慶長小判より)
 
庄三郎(しょうざぶろう)氏は京都の御用達彫金師の
後藤四郎兵衛家(ごとうしろべえけ)の職人さんでした。
 
豊臣秀吉氏の命で天正大判鋳造した5代目の後藤四郎兵衛徳乗氏の
お目に適い後藤の名前を許された優れた人材の人物でした。
庄三郎氏の出目については数説あり確かな事はありません。
 
※ 後藤四郎兵衛-Wikipedia ↓
 
※ 後藤庄三郎-Wikipedia ↓
 
時は1593年(文禄2年)徳川家康氏の要請で後藤家名代として
建設中の江戸に下る事となっていた徳乗氏の弟の七良兵衛氏が病気になり
代わって庄三郎氏が名代を勤めることになりました。
 
一説には1595年(文禄4年)ともあります
また、七良兵衛氏と庄三郎氏が一緒に江戸に下りましたが、
七良兵衛氏は京での暮らしが恋しくなりイヤで仮病を使い、
京に戻ったというのもあります。
実際の事はどうなんでしょうね
 
1595年(文禄4年) 『 武蔵墨書小判 』 は
関八州の領国向け通用のため江戸で初鋳されました
(翌年5年説もあります)
 
※ 武蔵墨書小判 泉屋博古館 住友コレクション ↓
 
※ 慶長小判-Wikipedia ↓
 
庄三郎氏は京の後藤家の婿養子になる条件で、
扇面に五三の桐紋の極印を打つ事を許可されました
後藤家の養子となったその時から 『 庄三郎光次(みつつぐ) 』 と名乗りました。
 
次いで短冊型の一分金の試作に取り掛かりました
小判についても墨書でなく、
頻繁に通用しても良い様に極印打ちに改めました
 
1600年(慶長5年)慶長小判・一分判金を大量に鋳造しました。
翌年には末吉勘兵衛(すえよし・かんべえ)と共に銀座を設立しました。
 
徳川の金銀貨を全国貨幣として流通させる為に尽力しました。
庄三郎氏は家康氏の側近の一人として幕府財政にも深く関わりました
 
面白いミステリーな 『 お岩(大橋の局)の話 』 があります。
機会がありましたら、伝説としてお話しますね