2013年 11月23日(土)
夜勤明けの土曜日いつもより早く目覚めました。
砂金日和のいい天気ですね。
残念なニュースを目にしました。
来年度から午前9時から午後5時までの平日の高速料金の
3割引きが無くなってしまう見通しの様ですね。
これからは時間帯を考えて走行しなければなりませんね。
今すぐはないと思いますが
財源が無くなれば昔に戻ってしまうかもね。
さて、笹金伝説の佐々成政(ささ・なりまさ)氏のお話です。
有名なのでご存知の方も多いと思います。
佐々成政氏は11月15日(金)の記事でも触れた様に
織田軍の精鋭の一人です。
※ マイブログ 11月15日(金)の記事 ↓
しかし、秀吉軍に撃破されました。
成政氏は剃髪して降伏し、娘を人質に出す事で
秀吉氏に越中一国を安堵されました。
秀吉氏は形勢不利とみて、織田信雄氏を丸め込み和議を結びました。
家康氏も信雄氏が和睦した為に
大義名分が無くなり、やむなく兵を引き上げます。
しかし、この成り行きに合点(がってん)がいかない成政氏は
家康氏の再挙を申し立てようと行動を起こしました。
俗にいう 『 さらさら越え 』・『 ザラ越え 』 を断行しました。
言い方の違いは気になりますが分かりません。
一方の家康氏の反応は立山の氷雪以上に冷酷なものでした。
成政氏は、やむなく来た道を戻りました。
六十数名の部下と共に出発して来ましたが、帰還した部下は6名でした。
極寒の地ですからね。
家康氏の家臣の松平家忠(まつだいら・いえただ)氏の12月25日の日記には、
『 越中の佐々内蔵助(成政氏)、浜松へ越し候 』 と書かれているそうです。
成政氏のザラ越えはどうやら史実のようですね。
成政氏は家康氏の説得に失敗した為、
この一件が秀吉氏の耳に入ったのでしょうか?
秀吉氏から征伐を受けました。
秀吉軍10万に包囲されてしまいました。
もうこれまでと観念した成政氏は部下に命じて黄金を信州に運ばせました。
しかし、重たい黄金を担いで峠を越えられず、
途中の山中に石室を作り隠したといわれてます。
大軍に囲まれてからでは持ち出せないでしょうから、
察知して囲まれる前に持ち出したのでしょうか?
この辺は数説ある様です。
私的には家康氏に断られたら終わりだと思い、
埋蔵も兼ねて浜松へ出発したと考えた方がいい感じがします。
黄金は100両とも18tともいわれてますが・・・。
所有の金山があったのは事実の様です。
『 朝日さす 夕日かがやく 鍬崎に
七つむすび 七むすび 黄金いっぱい 光りかがやく 』
という歌が地元に残されているそうです。
黄金は四十九個の壺につめて埋めたといわれてます。
単純に『 七つむすび 七むすび 』 から7×7=49という事でしょうか?
それとも7箇所に埋めた事を意味するのでしょうか?
歌は五七五で出来てると私は推測しました。
黄金は 『 こがね 』 と読めばいいかな?
しかし、 『 七むすび 』 は五ですが
『 七つむすび 』 は六ですのでどうなんでしょうね。
笹の葉の形状の金塊に佐々成家の家紋が刻印されていたそうです。
『 笹金 』 の由来はここから来てる様です。
※ 佐々家の家紋 隅立て四つ目結(すみたてよつめゆい) ↑
また、隠してある所はマムシの巣がある大樹の下付近で、
呪文をとなえると笹金が詰まっている壺が見つかるといわれてます。
後に成政氏の領地は名目上1万石を残して没収されています。
そして、大坂に移住させられて御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉氏に仕えました。
しかも、羽柴姓まで頂くと処遇を受けます。
※ 御伽衆-Wikipedia ↓
しかし、ここにも秀吉氏の策略があります。
最初から成政氏の技量では治める事が出来ないであろうと睨(にら)んでいました。
策略は的中して肥後で一揆が起こりました。
これを押さえられなかった事を理由に切腹させられました。
成政氏の末裔が古地図を所持していた話があります。
明治の中頃、7枚の笹金が見つかったという話もあります。
今でも宝探しをする人が絶えないそうです。
(参照:150兆円の黄金を探せ・日本の埋蔵金100話)
人生をかけて探し求める人。
遭難して山岳警備隊のお世話になった人もいるそうです。
やはり、人間は金の魔力とロマンに惹かれるのでしょうか?
そういえば、近年に建設中の 『 歴史国道・倶利伽羅(くりから)・源平の郷 』
の工事現場から埋蔵金が出た様ですね。
※ 画像:共同通信社
※ 日本の歴史新聞 ↓
こんな事があると確かに探してみたくなりますね。