砂金に魅せられて!金狼の日々

砂金掘りを中心に、日常の記録です。

大久保 長安 (おおくぼ・ながやす)

2012年 12月6日(木)
 
今朝、会社を出て帰路を走行中に雨が降って来ました。
傘は使わなくて済みましたが天気予報通りでした。
 
さて、私には気になる人物がいます。
ご存知の方も多いと思いますが・・・。
金銀山奉行の 『 大久保 長安 』 です。
 
名前を 『 ちょうあん 』 ともいうみたいですが、
ここでは 『 ながやす 』 でいきたいです。
 

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父の信安は甲斐の武田信玄氏のお抱え猿楽師でした。
長安は信玄氏に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられました。
譜代家老の土屋昌続の与力に任じられ、姓も土屋に改めました。
黒川金山の開発や税務などに従事したと言われています。
 
甲斐武田家が滅んだ後、長安徳川家康氏の家臣として仕えるようになります
どの様にして、家臣となったかは定かではありません。
長安大久保忠隣氏の与力に任じられて庇護(ひご)を受ける事になります。
後に、大久保姓に改めました。
 
関ヶ原の戦い以降は、大和代官石見銀山分役佐渡金山接収役甲斐奉行石見奉行美濃代官。
これら全て兼任の形で家康氏から任命されています。
 
そして、従五位下石見守に叙任され、
家康の6男の松平忠輝氏の附家老に任ぜられます。
従五位下石見守とは幕府の役人の位をいうのでしょうか?
 
さらに、佐渡奉行所務奉行(勘定奉行)に任じられ、
同時に年寄老中)に列せられた。
そして、伊豆奉行にも任じられました。
 
これら一切の奉行職を兼務していた長安権勢は強大であったと言われてます。
また、諸大名との人脈から 『 天下の総代官 』 と称されています。
 
豊臣秀吉氏の程ではないにしろ凄い大出世です。
 
そんな長安も、1613年(慶長18年) 4月25日
卒中のために享年69歳で死去したとなってます。
 
ここからが、ミステリーです。
長安の死後、生前の金山の統轄権を隠れ蓑(みの)不正蓄財理由で、
長安の子供は全員処刑されました。
 
縁戚関係にあった諸大名も連座改易などの処分を受けました。
勿論、庇護役であった大久保忠隣氏らも失脚しました。
 
温厚で知られる家康氏が埋葬されて腐敗したの長安の遺体を掘り起こさせ、
駿府城の川原で斬首して晒(さら)し首にしています。
 
この事件の裏には様々な憶測があります。
大久保忠隣氏と反対勢力の本多正信氏・正純父子の陰謀説。
伊達政宗氏の幕府転覆計画の賛同説。
徳川家による他の大名への見せしめ粛清説。
 
さて、本当の所はどうだったのでしょうか?
本人に聞かないと分かりませんか?謎です。
 
長安金・銀の申し子で徳川政権を支えた一人には間違いない様です。