2012年 11月24日(土)
今川家は将軍に何かがあって将軍家が絶えてしまうような事があった時に、
その将軍職を引き継ぐ権利を持っていたという名家の家柄でした。
1517年(永正14年)
8月15日の 『 宗長手記(そうちょうしゅき) 』に
大河内貞綱(おおこうち・さざつな)らが
引馬城(ひくまじょう)で籠城し、
この事が勝因となり、大河内貞綱は討死。
尾張の援軍の斯波義達(しば・よしたつ)は出家して
降伏し、尾張へ送還されました。
今川氏親氏が先だった様です。
すでに金山開発が進んでいた事になります。
「 追掘(おっぽり) 」 といって
川の河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法が主でした。
いつの時代からなのかは不明ですが、
坑道によって金鉱石を採取する 「 問掘(といほり) 」 へと進歩しています。 ※宗長(そうちょう)とは?
他に年号は永正12年・13年・15年など史料によって違う様です。
どれが正しいのか不明なので、ここでは永正14年とさせて頂きます。
もう一つ驚いた事があります。
の妹(もしくは姉)に当たります。
ちなみに、「 北条早雲 」の名は後世につけられた俗称です。
1476年(文明8年)2月に
父の今川義忠氏(いまがわ・よしただ)が塩買坂の合戦で戦死しました。
父の従弟の小鹿範満(おしか・のりみつ)と家督をめぐる争いは激化しました。
早雲の仲介により関東勢を阻止して、範満を討ちました。
その功によって富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主になっています。
その後、早雲の補佐を受けながら遠江国を制圧に成功して
氏親と早雲は密接な協力関係を持って、支配領域の拡大を行った様です。
そこには金山という後ろ盾があったのではないでしょうか?
そこには金山という後ろ盾があったのではないでしょうか?
勿論、私の推測ですが・・・。
また、領内の検地を行いそれまでの荘園制的土地支配から、
氏親による一元的な土地支配への転換が計られています。
晩年は「 今川仮名目録 」という、分国法の制定に力を注いでいます。
領国経営を軌道に乗せることに成功した賢い人物だった様です。
※ 家康公史跡めぐりHP 増善寺↓